インタビュー
「株式会社 木村板金工業」

今回は、新潟県上越市で建築板金業として創業70周年を迎えられ、
屋根工事業としてはもうすぐ100周年を迎えられます、
株式会社木村板金工業の木村社長にお話をお伺いします。

株式会社木村板金工業は、その類まれなる経営手法で、
全国1200店舗を有する大手ホームセンターのメンテナンスを一手に引き受けるなど、
業界の常識を次々と打破し続けると同時に、住まいづくりを通じて
地域社会の改善と発展に寄与することも大切にしておられる会社です。

代表取締役社長 木村 孝貴

木村板金工業の歴史

まずは今年創業70周年を迎え、もうすぐ100周年を迎えられますが、その歴史と企業理念について教えていただけますでしょうか。

 はい、今話がありましたけど、今年で屋根屋・建築板金で70周年、私は板金屋の二代目なんですけども、(今年の一月に亡くなった)創業者である私の父はこの七月で90歳でした。
そして今年創業70年ということで、そう考えるとうちの先代が二十歳の時に創業したことになりますね。
その時にはもう私のおじいちゃんに当たる人が事業を始めていたんですけども、おじいちゃんも元々屋根屋で、当時は茅葺き屋根を新潟県のこの地から職人を連れて長野県で仕事をやっていたという話です。
おじいちゃんは早く亡くなった方なので、私も顔は知らないんですけども、今の家に引っ越す時に感謝状が出てきたんです。長野県のある神社の屋根改修工事という。
その時に、私のおじいちゃん、木村松五郎さんは茅葺き屋根工事をやってたんだという証拠が出てきて、屋根屋三代目として私も嬉しく思いました。
当時から、やっぱり地域の人に信頼されて大きくなってきたんだろうなぁって。

 うちの父は親父を小学校六年生の時に亡くしたんで、父がじいちゃんと一緒に仕事をした時代はなくて、途中途切れたんですけども、やっぱり屋根屋になろう、これからは茅葺き屋根じゃなくて板金屋だ、ということで、板金の丁稚に入ったそうです。
叩き上げで、当時丁稚っていうと六年だったかな、でも結構優秀だったので五年くらいで戻ってきて、近所の人たちに親父の跡を継いでやれよと言われて、屋根屋・建築板金を始めたそうです。
でも帰ってきてもね、お母さんが一人で育ててたんでお金がない訳ですよ。
それで村の人から出資してもらって、当時、頼母子講っていう講を作って出資してもらって、屋根屋を始めたと、そういう話を聞いてました。

そうすると初代と先代、おじいちゃんからお父さんの間が少し空いていますが、跡を継ぐという事は頭の中にあられたんでしょうね。

 小学校六年生の時におじいちゃんが亡くなって、それから二十歳くらいまで十年までいってないけど、その間に、中学終わって丁稚に入って、もう屋根屋を目指してたってことですね。
それなんで、その屋根屋と意識は途切れることはなく繋がってきて、いま私のことろまで来ているということですね。

地域に支えられ、地域を大切にするという気持ち、地域の中にできることは何だ、と考えられるのは、当時からの思いが脈々と社長にまで受け継がれてきたからですね。

 ただね、私も元々はゼネコンにいたんですけど、木村板金に入った時はバブル最盛期で、もうイケイケドンドンの時代だったんで、ゼネコンからの仕事が100%近くて。仕事をこなしてから請求書・見積書を出す、請求書を出せばすぐOKって時代だったんですよ。
当時は日本中そうだと思うんだけど、バブルの頃は地域の人から助けてもらってるという意識を、覆いつくすような環境だったんでしょうね。地域の方々も勤めに出ている方も景気が良かったから、その時代はそれで良かったんでしょうけれど…

 でもね、ちょうど私が引き継いだ時から景気が落ちてきて、先代から会社の内容を見せてもらった時には、もう赤字になるぎりぐらいまで来てたんです。このまま行ったら1年後2年後…もう赤字だと。
そんな時に私が社長になって、そこで目が覚めましたね。
頼るところは、やっぱりゼネコンやなんかの他力じゃなくて、自分でやっていくんだと、そこでまた個人のお客様っていう初代からの意識・理念、それがやっぱり一番大事な根本だということに目覚めて私はやり始めました。

では、社長が入られた頃はほぼゼネンコン仕事で、引き継がれてからは半々ぐらいまでもっていかれて、でもゼネコン仕事はもう安い値段で、これでできないか、の時代で…
そこで、これじゃあ経営は駄目だと思われたのですね。
わずか10年15年ぐらいの間に、工事してから見積もりっていう時代をから、仕事欲しくないのか、もっと安くしないかっていう時代になって、まさに激動の両方を社長は経験してこられていますね。

 今ではそれが本当に自分の原点になったんだろうなって思います。自分の力をもっと出して頑張っていかなくちゃいけないっていう糧になっています。
ただ、当時そう思い始めた時にはまだ漠然と原点に帰らなきゃってくらいで、まだこれをやったらいいっていう確信はなかった。ただ人に頼って仕事をもらっているばかりじゃ駄目だっていうのはもう分かった。潰されちゃうってくらい。
会社も見ての通り、ある程度大きく投資して、機械なんかも整ってたので、それを使ってやっていくにはどうしたらいいかなぁとか、そういうことも考えました。

なかなかこの規模の工場はないですからね。ここから徐々に原点回帰して、いろんなことも試されつつ、何が会社を支えていくんだろうか、という試行錯誤が始まるわけですね
社長が来られた時には、この工場はもうあったのでしょうか。

 いや、来てから造った工場です。
来てからそうですね、多分先代がここに来てから20年くらいになるのかな。その前にもう先代が私に継がせるんだ、継いでくれるんだっていう意識があった時に、1000坪の土地にね、これだけの大きな工場を投資してくれたんです。
本当に悩みました。
だからこそ、社長になった時にいろんな勉強しました。社長として。
社長ってなんなのか、今まではいくら職人さんから、次の社長、専務専務、とは言わても、実感は何もないじゃないですか、やっぱり社長にならないと分かんないですよ。
お金を動かすとか、営業で仕事を取るんだとか、だから社長って何なのかとか。

 その時に、経営指針を作る会とか、そういうのに出会えたので、入って勉強したりしました。社長になるまでは業界の付き合いってあんまりしてこなくて、組合なんかにも入ってなかったんですけど、青年会議所とか、もうちょっと大きな経済同友会とか、そういうところには入ってたんで、そこで良かったのはのはいろんな経営者と話ができたことでしたね。
それからいろんな業界の人達とも話しをするようになって、マドックさんと出会えたのも、この業界に私が入って荒山社長との出会いは本当にすごい転換でした。マドックさんの宣伝になっちゃうかもしれないんだけども、本当にやっぱり人間っていろんな出会いの中で、自分をどこへ持って、どう力を付けて、どう動かしていくかっていうのがやっぱり決まってくるのかなと思います。

 当時、2003年だったかな、ISOに取り組み始めて7月1日にキックオフをして、じゃあとにかく年内で取ろうよ、という事で、本当に忙しい季節の中で勉強会を始めてね。
その時は一生懸命勉強しましたよ。
従業員も一緒に勉強させてもらいました。

当時は、それがきっかけとなって、元々考えてらっしゃったことが、このISOを通じて一つの形として出来上がっていく。その過程を拝見していて、理念や社長のお話を、勉強会の中で皆さんが真剣に聞いておられたのが印象的でした。

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